ダニエル・シュミットやアラン・タネールらと並び、1960年代後半に起こったスイス映画の新しい潮流“ヌーヴォー・シネマ・スイス”の旗手として知られる、フレディ・M・ムーラー。
代表作である『山の焚火』は、1985年に発表され、ロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)を獲得し、世界にムーラーの名を轟かせた。本作はスイス国内では25万人を動員し、スイス映画アカデミーよりスイス映画史上最高の一作に選定され、大きな話題を呼んだ。
本特集では、『山の焚火』と合わせて「マウンテン・トリロジー」を構成する2本のドキュメンタリー映画『我ら山人たち─我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない』(1974年)と『緑の山』(1990年)を同時上映。ムーラーが生まれ育ったスイス・ウーリ州の山岳地帯を舞台に、人と自然、そしてまるで現代を予知したかのような今日的問題を、描き出す。
広大なアルプスの山腹。人々から隔絶された地で、ほぼ自給自足の生活を送る4人家族。10代半ばの聾啞の弟は、その不自由さゆえに時に苛立つこともあるが、姉と両親の愛情を一身に受け健やかに育つ。ある日、草刈り機が故障したことに腹を立てた弟は、それを投げ捨て父の怒りを買う。家を飛び出し山小屋に隠れ、一人で生活をする弟。そこに食料などを届ける姉。二人は山頂で焚火を囲み楽しい時間を過ごすが、やがて姉の妊娠が発覚し…。
映画の舞台となった一軒家は、ムーラー監督が100軒以上も歩いて見た農家の中から見つけた小屋で、荒れ果てていたものを、増築したり家具や食器を運び入れたりして整えた。役者やスタッフは、山裾の宿に泊まり、ケーブルカーで小屋のある山上の撮影現場と行き来した。撮影のピオ・コラーディは、本作の前までは4本の長編映画を手掛けただけだったが、屋外での複雑な移動撮影、屋内での少ない光源の撮影などで見事に美しい映像を撮り上げた。本作を手掛けたのち、『緑の山』『最後通告』『僕のピアノコンチェルト』などといったムーラー監督作の撮影を担当している。音楽のマリオ・ベレッタは、本作で耳の聞こえない少年の置かれた状況を画面の中の動作から生じる音によって効果的に作り出した。
スイス/ 1985 / スイス・ドイツ語/ カラー/117分
監督、脚本:フレディ・M・ムーラー
撮影:ピオ・コラーディ 編集:ヘレーナ・ゲルバー 音楽:マリオ・ベレッタ
出演:トーマス・ノック、ヨハンナ・リーア、ロルフ・イリック、ドロテア・モリッツ、イェルク・オーダーマット、ティッリ・ブライデンバッハ
われら山人たち われわれ山国の人間が山間に住むのは、われわれのせいではない
Wir Bergler in den Bergen sind eigentlich nicht schuld, dass wir da sind
映画は地域によって三つのパートに分かれている。長いトンネルを抜けた先にある第一部の舞台はゲシェネンの渓谷。トンネル建設によって自然環境のバランスが崩れ、長年営まれてきた牧畜経営の破綻する運命が示される。第二部の舞台シェーヒェンの渓谷では、伝統的な高原の牧畜経営が維持され、直接民主制によって多くの政治的選択が行われている。第三部の舞台マデラーナー渓谷のブリステンでは、牧畜経営だけでは共同体の運営が難しいため、住民の半数はよそへ働きに出ている。1973年から1975年にかけて丁寧に撮影された本作には、対象となる地域だけでなく、民俗学的なテーマや、共同体の閉鎖性など『山の焚火』に直接的に繫がる多くの要素が詰まっている。
スイス/ 1974 / スイス・ドイツ語/ カラー/108分
監督:フレディ・M・ムーラー 撮影:イワン・シューマッハー
編集:フレディ・M・ムーラー、エヴェリーネ・ブロムバッハー
1988年、NAGRA(ナーグラ:国立放射性廃棄物管理協同組合)はニトヴァルデン準州ヴェレンベルクに原子力発電に使われた核の最終廃棄物処理場を建設する計画を発表し、地域住民の抗議団体が形成される。支持者と反対派にインタビューする。リサーチと議論は、直接影響を被る人々、ヴェレンベルクで数世代にわたって暮らしてきた家族に焦点を当てる。彼らは、放射線の危険性を目前にし、今や自身のルーツと生活の地を奪われることに直面している。さらに本作は、政治家、地質学者、医学者など様々な立場の人々の話から、一過的で限定された地域の問題にとどまらず、時間の尺度としては人間の寿命をはるかに超えたスケールの問題を提起する。ムーラーはこの作品を「子どもたちと子どもたちの子どもたち」に捧げており、次世代に対して責務を負うべき大人たちに、今日にも通じる問いを突きつける。
スイス/ 1990 / スイス・ドイツ語/ カラー/ 128分
監督、原案:フレディ・M・ムーラー 撮影:ピオ・コラーディ、編集:カトリン・プリュス
1940年、スイスの山岳地帯ニトヴァルデン準州ベッケンリートに六人兄弟の末っ子として生まれる。ウーリ州アルトドルフで少年時代を過ごし、1959年にチューリッヒの美術工芸学校に入学し製図を学ぶ。その後、写真専攻に変更、映画制作にも興味を抱く。1962年、8ミリによる短編映画『マルセル』を発表。
その後、短編や中編のドキュメンタリー映画を発表し、国際的な評価を得る。1969年オムニバス映画の一篇としてSF作品『スイスメイド─2069篇』(1969)を監督。この頃、渡英しロンドンで教鞭をとる。帰国後1972年、『エイリアン』(1979年)で有名になる以前の画家H・R・ギーガーとの親交から、彼の創作イメージの過程を探ったドキュメンタリー映画『パッサーゲン』を発表。1974年、『我ら山人たち─我々山国の人間が山間に住むのは、我々のせいではない』を発表しロカルノ国際映画祭国際批評家賞を受賞。1979年、初の劇映画『灰色の領域』を制作。1985年には『山の焚火』を発表し、ロカルノ国際映画祭金豹賞およびエキュメニカル賞を受賞するなど高い評価を受ける。1990年「マウンテン・トリロジー」を構成するドキュメンタリー作品『緑の山』を発表。
その後、『最後通告』(1998)でひさしぶりに劇映画に取り組み、モントリオール世界映画祭でアメリカ・グランプリ賞を受賞。2006年の『僕のピアノコンチェルト』では、実在の天才少年ピアニストのテオ・ゲオルギューが主役を演じ、アカでミー賞外国語映画部門にノミネート、世界各地の映画祭に招待された。2014年、自身の母が75歳の時に記した自伝に基づく劇映画『Love and Chance』(原題:Liebe und Zufall)を発表し、映画制作からの引退を発表する。
地域 | 劇場 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
東京都 | ユーロスペース | 03-3461-0211 | 上映終了 |
東京都 | ユジク阿佐ヶ谷 | 03-5327-3725 | 上映終了 |
東京都 | 東京都写真美術館ホール | 03-3280-0099 | 上映終了 |
東京都 | アップリンク吉祥寺 | 0422-66-5042 | 1/2(土)~1/7(木) | 東京都 | 新文芸坐 | 03-3971-9422 | 1/13(水)・16(土)・19(火) |
神奈川 | 横浜シネマリン | 045-341-3180 | 上映終了 |
群馬 | シネマテークたかさき | 027-325-1744 | 上映終了 |
地域 | 劇場 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
長野県 | 松本CINEMAセレクト | 0263-98-4928 | 9月22日(火・祝) |
長野県 | 上田映劇 | 0268-22-0269 | 上映終了 |
愛知県 | 名古屋シネマテーク | 052-733-3959 | 上映終了 |
地域 | 劇場 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
京都府 | 京都みなみ会館 | 075-661-3993 | 上映終了 |
大阪府 | シネ・ヌーヴォ | 06-6582-1416 | 上映終了 |
兵庫 | 元町映画館 | 078-366-2636 | 上映終了 |
地域 | 劇場 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
鹿児島 | ガーデンズシネマ | 075-661-3993 | 上映終了 |